随筆「東京モノローグ2002」(7−8月期)
index 次へ 随筆「東京モノローグ2002」(5−6月期) 随筆「東京モノローグ2002」第117話(前編) 随筆「東京モノローグ2002」第117話(後編)



第119話 富士銀行 / 第118話 荒川流域三題〜高麗川・巾着田河川敷クリーンアップ/みやこ豆腐/水門がなくなる? / 第117話 割り箸コレクション⇒画像ページ(前編後編 / 第116話 8時出発、8時帰宅〜転職のご挨拶など

第119話 富士銀行(2002.8.15)

 第111話の続きという訳ではないが、第119銀行は、東京第119銀行で、経緯はともかく現在は東京三菱銀行にあたるそうな。前の第118話で紹介できればちょうど良かったのだが、第118銀行は、これまた遍歴の末、富士銀行を経て、みずほ銀行になっている模様...

 という訳で、1話ずれたものの、今回はズバリ「富士銀行」にまつわる顛末記などを。

 筆者の名前は、プロフィールの通り、冨田行一だが、戸籍の正式表記が「冨田」であるとハッキリするまで「うかんむり」の富、つまり一で通していた。そのため、かつては士銀とは2字違いだったので、銀行の中では昔から何となく親しみがあったのだが...

 幼少時は、よく富士銀行に連れて行かれたのを憶えている。自動ドア、富士山の大きな額絵、そして夏場の強烈な冷房など、銀行は別格の存在であることを示す要素であふれていた。子供にとっては相当特別な場所だったので、ただでさえおとなしかった当時の筆者は銀行に入ると一層カチコチになっていたんだと思う。

 各種書式に記入するために設置されている記載台というかテーブルには、見慣れない漢字が書かれた表形式の紙が何種類も置かれている。そんな中で、口座開設だか、預入か払戻か、とにかく朱色で印字してある用紙がいつも気になって、しかも複写式というのがまた物珍しく、富士銀行に行く度に「今日こそは手に入れるぞ」とトライするものの、テーブルは頭を超える高さだったし、ただでもらえるものとも知らなかったので、躊躇が続き、いつまで経っても手に入らずじまい。その悶々たる心境たるや。
(こうして振り返ってみると実に妙な子供である。) 3才にして23区を走る国鉄の駅名を漢字で書き出していたという筆者は当時、とにかくいろんな書式・様式にも興味があった。それだけ漢字に飢えていたということだろう。しかし、テーブル上に手が届く背丈になって、そんな念願はついに果たされた。ドキドキしながらも自力で1枚もらって帰って来ることに成功。意味はさっぱりわからなかったが、ヒマさえあれば食い入るように眺め、漢字を書き取りつつ、印鑑を押す欄などの表組みの妙を堪能していた。

 さて、そんな記憶とともに、歳月は過ぎたが、富士銀行が身近な存在であることには変わりなかった。CI
(コーポレートアイデンティティ)を新しくした後は、通帳やカードのデザインセンスも冴え、愛着は増していった。

 結婚した最初の年に住んでいた西大井。転機を記念する意味も込め、横須賀線の西大井駅前にあった富士銀行をメインバンクにすべく、成城支店にあった口座を富士銀行自慢の「自動移店サービス」で西大井に移して悦に入っていたのを思い出す。しかしその後、現住所に転居した際、きちっと窓口に出向いて、自筆にて住所変更届を出したにもかかわらず、銀行側の不手際で住所変更にミスがあって、とんだ不便を被ることになる。ケチの付き始めである。

 他行と同様、バタバタと支店を畳む動きの中、西大井支店は閉店され、馬込支店にいつの間にやら併合されていたとのこと。定期的に届いていた郵便物が、転居してから来なくなって何となく不審に思っていたが、通帳はそのまま記帳できていたので、閉店していたなんて思いも寄らない。併合後1年経ったあたりだろうか、ある日急に記帳ができなくなって、カードも通らなくなって、初めてのことだったので大いに慌てた。窓口に訴えると、通帳とカードを新しく発行するので、併合店の馬込まで行って手続きを、とのこと。「前々から予告していた筈ですが...」→「いや知りません」→「ご住所の確認を...」→「!?」

 よく見ると、住所が1字違いになっている。これでは不達になる訳である。「窓口でちゃんと変更届を出したんですよ」と息巻いても、行員は涼しい顔。同行他店の不始末とは言え、お詫びが一言もなかったのは、もともとそういう体質、行風だったということか。

 通知が届かず、事情を知らない客は、「勝手に閉店しといて、おまけに通帳もカードも使えなくするなんて!」という悪印象を受ける。取り繕いようがないパターンである。新しく開店した時に作った想い出深い成城支店の口座の系譜は、こうして集約されることになる。(ハイセンスな通帳とカードともこの時点でお別れ。)

 自分の手で初めて口座を開いたのは、筆者のホームタウンである経堂の支店
(冒頭に記した別格の場所)でのこと。だが、いつしかメインバンクを変えることになり、西大井支店の口座とともに、経堂支店の口座も休業状態になった。筆者が赤羽に越してきた折り、縁深い経堂支店も「自動移店サービス」で赤羽にシフト。西大井の口座はトラブルでケチが付いたので、西大井はクローズ(預け替え)して、この赤羽支店の口座に一本化することにした次第である。

 第97話で紹介した通り、ATM宝くじには富士銀行の口座が何かと好都合だったので、これはこれで維持しておくつもりだったのだが、さすがに4月1日以降のみずほ銀行の一連の失態劇を見てからは(行名が消滅してしまったことでもあるので)、富士銀行とのご縁もここまで、と見切りを付けることになる。

(当の4月1日、池袋西口の旧富士銀行に行ってみたら、旧第一勧銀の客が記帳ができない旨、クレームを入れる客を見かけたので、不吉な予感が走ったのだが、その後の顛末は案の定であった。筆者も住所違いの一件があったので、「あぁやっぱり」という感想である。起こるべくして起こったもの、と静かに受け止めている。)

 みずほ銀行でも旧富士銀行に限っては、両替機を含むATMがきれいなこと、画面も見やすいこと、といいこともあるのだが、トラブルはもうご免である。という訳で、いつ預金を空にしようかと思案していたところ、遂に転機がやってきた。

 自宅マンションに光インターネットが引き込まれることになったので、ISDNから一足飛びで光に切り替え、その光に対応させるべく、相応のPC(WinXp)を調達することになったのだ。
(97年に買ったWin95機種から5年経っているので、これまた実に、Win98・Me・2000の歴代OSをスキップしての快挙である。) 大金を持ち歩いて買いに行く訳にはいかないので、銀行カードを使ってのデビットカード払いで臨む。みずほ銀行の口座残高がちょうどいい感じだったので、これを使い、残高ゼロ化に向けてのお膳立ては整った。

 小銭を足し、2000円ちょうどにして、口座幕引きのつもりでATM ロト6に全額振り向けたのがつい昨日、8月14日である。解約はまだしていないが、永らくお世話になった富士銀行の口座残高はかくしてゼロになる日をちょうど迎えたところである。顛末記はここまで。

(ちなみに、これまでの記帳データを見ると、預金利子が付くのは8月15日前後になっているので、付く直前に0にしてしまった場合、果たして利子はどう出るのか、余計な心配ができてしまった。これで利子が1円でも付いてしまうと、わざわざ0にした甲斐がなくなってしまうし。変な話である。)

 仮にロト6でドカンと振込がされでもしたら、富士銀行とはよほど因縁がある、ということか。その時はあきらめて口座を継続することになるだろう。

第118話 荒川流域三題(2002.8.1)

 閑話休題モードに入ってきたので、今回はかねてから予告していた「フライング・ビハインド」のお題で行くつもりだったが、ここんとこ荒川ネタがたまってきたので、短編3つを並べての「荒川流域三題」をお届けすることにした。(短編の組合せは前々から構想はあったが、なかなか実現できなかったので、ちょうど良かったとも言える。)


■其の一:高麗川・巾着田河川敷クリーンアップ

 荒川本流ではなく、荒川中流域に注ぐ支流、高麗川での話題。筆者が運営委員として属する荒川クリーンエイド・フォーラムの恒例行事、「なつやすみ水辺の楽校」だが、今年はいつもの都内、荒川下流ではなく、きれいな水に親しんでもらう意図もあって、高麗川での実施とした。場所は西武秩父線 高麗駅近地の巾着田と称する一帯での河川敷である。(川が彎曲し、ちょうど巾着袋を模した地形になっていることからそう呼ばれるらしい。)

 好天に恵まれ、この日秩父では37℃を超す暑さ。7月20日は海の日なので、何も川に行かなくても良さそうなものだが、夏休み初日とあって、この方面に向かう車は多く、朝早くから渋滞気味だった。筆者を含む先発隊3名は9時過ぎには巾着田に到着したものの、小学生を大挙引率しての本隊は、その渋滞に捕まり、午前中に予定していたクリーンアップに間に合わなかった。一大失点である。
(この日、小学生向けの行事としては、水遊び・投網・水質調査のみとなった。結果オーライだったが。) 本隊が持ってくる予定だったクリーンアップグッズがそろわなかったのが痛かったが、用意周到な地元系・荒川流域ネットワークの方々のおかげで、軍手と袋を出していただいたので事無きを得たという有様。

 クリーンアップは流域ネットワークの皆さんを含め、総勢20名で、10:30にスタート。思いがけず量が多かったことと、巾着田の流域面積が広かったため、終わったのは2時間後だった。炎天の中、通常の2倍の時間もよく持ちこたえたものだと感心するが、川の水に浸っている時間が長かったおかげだろう。それにしても、午前中とは言え陽射しが厳しいこと。たちどころに日焼けしてしまった。

 2週続けての台風と大雨で、高麗川も河川敷平面を基準にして、約2メートル程の水位に達していた模様。河川敷に降り立つと、樹木が横倒しになっていたり、草薮が土砂にまみれて拉げていたり、生々しかった。人の高さを超える高さで横に伸びる大きな枝には、上流から流されてきたらしい、枯れた草や蔓が絡まり、それにはビニール片やボロ切れなども付着していて、剥がして集めるのにひと苦労だった。

 河川敷は土砂で埋まっていて足場がないところも多く、高麗川沿いを歩いて進むには、川の中に入る必要があった。時に流れの速いところや、ちょっとした深みもあったので、危なっかしかった。本隊のこどもたちが遅れてクリーンアップに参加できなかったのは、結果的には正解だったかも知れない。ちなみに、さすがに奥まった河川だけあって、水は総じて澄んでいて実に清々しかった。

 天神橋より下流側300メートル程の地点から始めたが、この天神橋にたどり着くまでで重労働。用意してもらった日高市のゴミ袋が小さいこともあって、すぐにいっぱいになってしまう。天神橋のふもとでいったんとりまとめたが、その先、さらに進んで「あいあい橋」を過ぎたところで、追加の2袋も満杯に。この日、筆者が集めた、または見かけた中で目立ったものとしては、

エアコン廃品、ドラム缶、一斗缶、ビニールシート、衣類、扉、工事標識看板、農業用ネット、巨大ボルト、自転車、おもちゃのダンプカー、ビニール片多数

 といった状況だった。

 バーベキュー客で朝から賑わっていたが、その賑わっている付近の水際に、なぜか古い鋼の芯材が突き出ている場所があった。錆が激しく、軍手が真っ黒になってしまったが、クリーンアップでもしない限り、こうしたものは除去されない。ケガ人を未然に防ぐことができたとしたら冥利に尽きる。賑わっている場所はとかくゴミが多く出るものだが、傍らで黙々とゴミを拾って、ゴミ発生を抑止する一方で、ゴミ以外の危険物にも目を光らせ、それを取り除くことで、安心して行楽してもらうようにするのも、クリーンアップの意義としては大きいと思った。


■其の二:みやこ豆腐

 主に荒川を教材とした「総合的な学習の時間」ネタをお手伝いできる人を養成する講座「川に学ぶ体験活動講師養成講座」なるものを、これまた荒川クリーンエイド・フォーラムが主体となって実施している。7月27日、そのまとめとなる各種実習の後、志茂の青水門のふもとで野外交流会を開くことになった。土曜勤務の筆者は、実習には参加できなかったので、とにかく交流の場には出ようと現地に向かったのだが、遅れて顔を出すのに何の手土産もないのでは格好つかないので、ここはズバリ、地元赤羽名産を持って参じようと思い立った次第。秩父山系の地下水を使う点で共通だが、1つは例の小山酒造のお酒、もう1つは「美味しんぼ」では名高い豆腐屋さん「みやこ豆腐」の木綿豆腐である。第59話で書いた「アド街ック天国:赤羽編」では11位にランク)

 14時開店というのは知っていたが、閉店時刻が不明だったので、赤羽駅を降りてとにかく急ぐ。18:30にお店に着いて、開口一番「お豆腐6丁!」。まとめ買い客が珍しいとあってか、会話モードになり、思いがけず店主の磯崎浩子さんと20分ほど話をする機会を得た。早く交流会の席に持っていきたいと急く気持ちを抑えつつも、いろいろ得難いお話が聞けたので、以下、メモ書きする。

  • 私しか作れないことがわかった。今は66才だが、あと4・5年続けたら、店をたたむつもり。後継はいない。

  • 昭和30年代、当時としては珍しい衛生管理士の資格を取得。食の安全には昔からこだわってきた。絶対安全の自信あり。

  • かつてここは「みやこ製餡所」。ご主人は製餡業者だったが、医療ミスで他界されてしまったとのこと。(合掌)

  • 美味しんぼで最初に紹介されたのは16年前の第7巻。最近、第22巻で、再びみやこ豆腐を舞台にした美味しんぼが発刊されたが、取材は美味しんぼのタイミングとは関わりなく多い。

  • ホームページを作ったので、とにかく見て頂戴とのこと。作り方も掲載してある。
    (アドレスはズバリ、http://www.miyakotofu.com/である。)

 今でこそ、食品の安全性が声高に叫ばれているが、磯崎さんはとっくの昔にその重要性を認識し、実践し続けてきた。天然成分とともに歩んできた方だけに、年令を感じさせない溌剌さ。肌はもちろん声にもツヤがある。頷ける。

 単独で買うと70円する板氷を保冷用ということで、豆腐の数だけおまけで入れていただいた。発泡スチロールの箱にご丁寧に収めていただいて感無量。天然水を使った氷はこれまた絶品で、氷が不足気味だった交流会の席では大いに重宝した。ありがたい限りである。

 木綿豆腐が参加者の皆さんに大好評だったのは言うまでもない。その丈夫さから来る、食べ応え。絶対純度を持つ大豆と秩父山系の地下水の組み合わせによる総天然豆腐は、一度食べたら、その人の心を決して離さない、そんな逸品である。

 小山酒造、みやこ豆腐、両者の天然水へのこだわりは、商いの王道に通ずる。地元の誇りである。


■其のV:水門がなくなる?

《転載・転送自由》===

 赤羽、そして北区の名所の一つであり、荒川の治水・知水の歴史を語る上で重要な水門が荒川と隅田川の分岐点にあります。新しい方は通称「水門」と言い、現役稼動していますが、もう一つの古い方、ご存じ「水門」は実は水門としては機能しておらず、その歴史性のために、ただ残している(放置している)だけ、ということです。

 決して慌てることではないのですが、そんな赤水門の改修計画がにわかに持ち上がっているらしく、単にメンテするだけならまだしも、審議する委員(学識者?)の一部意見により、赤色の塗装をなくす(=赤水門と呼べなくする)方向で議論が進んでいる旨、関係者から聞きました。行政側としても赤水門のままで保全したいところが、何やら不可解な了見で、とにかく赤ではない色に塗り替えられそう、ということなのです。

 地元への説明もないようです。となると、地域から何らかの声を上げていくしかなさそうなので、一つのきっかけとして、Eメールでの伝聞、そして地元の皆様の口コミなどに期待する次第です。

===《ここまで》

 賛成か反対か、を問うよりも、まずはその理由やプロセスに疑問を呈したい、というのが正直なところです。(とにかく問題提起して、成り行きに任せるのがいいのかな、ということで。)

 1924年以来、先人の積年の尽力によって、ここまで保たれてきた水門。本当に塗り替える必要はあるんでしょうか?

*現在まで、赤水門として維持されてきたことを示す小史を見つけた。(こちらを参照ください。)

第117話 割り箸コレクション(2002.7.15)

 割り箸についてはこれまで第343973話で言及してきた。環境保護面でとやかく言うつもりはないが、中国がWTOに加盟したことで、中国からの輸入材も割高になってきたらしいので、割り箸がコストアップ要素としてクローズアップされる日も近そうだ。これを機に割り箸は付加サービスとして有料化してもいいように思う。(あるいはマイバッグと同じ発想で、マイ箸持参の人にはポイントやスタンプを提供するところから始めてもいいだろう。)

 筆者がマイ箸を使うのは、出所不明な外材を使いたくない、という思惟もあるが、何より外食をより豊かな気持ちでいただきたい、そんな理由からである。

 これまで少なくとも、渋谷センター街の某居酒屋、青山通りにあったお好み焼き屋、新宿南口のラーメン屋
(今は町田家)、代々木・北参道交差点近くに新しくできた丼飯屋、でマイ箸についてお褒めをいただいたが、店員さんも実は何を褒めていいのかわかっていない感があった。概ね、ゴミにならない方が望ましい、程度の感心だと思う。こっちは「より美味しく食べたいから...」などと言ってあとは淡々としていたのだが、もっと理解を深めてもらった方がいいのかな、と今では思っている。

 基本的に剥き出しの割り箸が円筒の容器に無造作に入っている場合はまず使わない。お膳と一緒に供される場合で、袋入りの割り箸が来た時は判断が分かれる。店員さんにお返しする場合と、記念に持ち帰る場合とに分かれるのだ。

 弁当屋で箸を付け足してくれる時、店員さんと間が合えば「要りません」でお返しできる。慌しくしていて、そんな間がつかめない時はそのままもらってしまうことになる。

 マイ箸を始めて12年以上経った。そんなこんなで、必要最低限のつもりでいても結構たまってしまうものである。
(外食が多いというのは我ながらあまり感心しないのだが) 最近もらったものも含めて、過去の割り箸を一斉に棚卸して、コレクション的に紹介すると面白そうなものを今回は並べてみた。割り箸に関しては細かく記録をとっていなかったので、「はてどこでもらったものだか?」というのもなくはないが、憶えている範囲でコメントを付した。第100〜102話の東京百景並に画像ファイルが相当数(全55パターン)あるので、別ページを設けての一挙掲載である。(こちらをご覧ください。⇒前編後編

 *クイックリンク ↓


 箸袋だけの紹介ではなく、箸材本体も入った状態(実物よりやや大き目)なのでリアリティは十分だろう。ただ、どこの原産のどんな木材、かつどの部位、というのが一部を除いてわからないのが難点。割り箸にも原産地表示がされれば、世間の割り箸に対する見方や使い方もずいぶん変わると思うのだが。

第116話 8時出発、8時帰宅(2002.7.1)

 第92話でご紹介した通り、グリーン購入ネットワーク(GPN)での2.5年の出向を終え、本社 環境推進部に復帰したのが今からちょうど1年前。復帰してからの半年をふりかえりつつ、当時の現況について記したのが、今年冒頭の第104話。そこで触れた通り、環境推進部では日々消耗戦、といった状況(「環境」で国内同業他社と闘うのはご免です)による精神的負荷は大きく、苦悶が続きました。自分の思いに忠実に環境貢献していくには、今の企業ではあまりに厳しいことを悟り、退職することを決意。本稿をお読みの一部の方にはすでにお知らせした通り、3月末で企業勤めを辞するに至りました。(GPNに出向する際、いったん辞めたような気持ちでいたのは確かですが。)

 不調続きで無理ができなかったため、平均すると7〜8時出発、7〜8時帰宅、という線を結果的に保つことになった9カ月間だったように思います。自宅で過ごす時間は程々ありましたが、PCに向かうのが辛かったので本稿を綴るのにも少なからず支障はありました。ですが、とにかく「東京モノローグ」は断筆するまい、第100話は構想通りまとめたい、という思いが励みになり、何とか1話も休まず、続けることができました。自分を見失わないようにする上でも、このように筆を走らせ続けるのは有効なようです。「継続は力なり」の重さを感じます。

 本社に戻り、ひとまず安心と思っていたのは慢心でした。時代が変わったせいもあるでしょうけど、仕事をする上で安泰な場所などありません。自分で自分を支えていくには、組織に頼らず自分の名前で仕事をする、といった度量・技量に加え、何よりそうした当事者意識が今後は一層求められてくるでしょう。企業を離れて非営利な世界へ転身する人が増えているのも首肯できます。いろいろな仕事や境遇を体験する人生も悪くありません。そう思う人がもっと増えると世の中少しは変わるでしょうね。

 ご存じの通り、省庁でも

 ・「産業構造審議会NPO部会
 や、
 ・「環境保全活動活性化専門委員会

 等の動きが出てきています。次の仕事のテーマと心して、こうした動きを追っていたら、あれよあれよで4月・5月の2カ月が経ってしまいました。

 非営利かつ、自分の持続可能な範囲での仕事に就くため、公募に応じつつ、関係各位の調整等を経て、おかげ様で次の仕事が決まり、ひとまず1カ月経ちました。(いろいろお気遣いいただいた皆様、この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました。)

 勝手を知る職場の筈ですが、そこでの勤務当事者に実際になってみると思いがけない発見や驚き、今まではわからなかったマイナス面・プラス面が見えてくるものです。この1カ月、またまたあっという間で、気付けば2002年ももう半分(いや、あと半分)、といった感じです。

 前置きが長くなってしまいましたが、ご挨拶方々現職場についてお知らせします。(メールアドレスが決まり次第ご挨拶を、と思っていたため、退職の挨拶、退職後の連絡など、いずれもに大変遅くなってしまいました。ご容赦ください。)

 ご縁あって、5月28日(火)から(以降、火〜土の勤務)、青山、国連大学近在の、『環境パートナーシップオフィスEnvironmental Partnership Office)(環境省 総合環境政策局 民間活動支援室)で働かせていただくことになりました。環境NPO・NGOの各種サポートを中心に、季刊誌(「つなぐ環境パートナーシップ(略称:つな環)」)の編集・発行(創刊準備号がちょうど出来上がったところです)、インターネットやデータベースの整備などボチボチ手がけています。地球環境パートナーシッププラザや環境省の仕事も随時手伝うようにしています。今のところ、無難なスタートを切れたものと思っていますが、これからが正念場と、気を引き締めているところです。(GPNで学んだこと+NECでの実質8.5年の職務経験も活かしていければ、と僭越ながら思っています。)

 NGO、企業、双方の経験を活かしつつ、今後のパートナーシップや一人一人の市民意識のあり方などについて、皆さんと考え、実践していくための知を集積・共有していければ、と思っています。

 これまでボランティア的に関わってきた事柄を、今度は仕事として本格的に取り組むことになります。関係各位はじめ、今回の件でご支援いただいた方々のご厚情に沿えるよう、今一度原点に帰り、持てる力を以って努めたい所存です。本稿をご覧、かつ旧知の皆様にはお話を伺う機会もあろうかと思います。その節は、よろしくお願いします。

 今後は8時出発、8時帰宅の線で勤務するつもりですが、GPN在職時のように仕事のペースが当て嵌まれば(?!)、何時間でも働けそうです。どうなりますやら。


  • 付記1) 企業にいた者の立場から思うところを一筆

 今はどこも厳しい折りですが、企業の内部にいると、その大変さ辛辣さが一層身にしみます。NGO・NPOで志の高い活動をされている方にしてみれば、企業は一枚岩のような印象がまだおありかと思いますが、さすがにこのように情勢が厳しくなってくると、職業観や人生観が揺らぎ、企業で働くことに疑問を持っている方が増えてきていることも事実です。つまり従来にも増して、考え方の分化が進んでいる、ということが言えます。(日経等のビジネス各誌でも盛んに書き連ねられている通りです。)

 環境対応に関しても、企業の中に対立軸のようなものが見えてきて、大げさに言えば、[守旧派]×[環境派]といった構図(世代間やトップ・ボトム間のギャップを含む)が窺える場合があります。そのため、企業トップ層に直に働きかけても効果が薄く、働きかけが通った場合でも、その反作用で下位の方々が苦しむだけ、ということも有り得る訳です。

 90年代に入社した人を中心に、企業内にもマインドの高い人は大勢います。ですが、そのマインドの高さ故に、企業としての現実的対応とのギャップに苦慮し、やりきれない思いを抱えているのが実際ではないかと思います。

 担当者や主任・係長クラスの方をご存じの場合は、その方々を応援し、助けるくらいのつもりで接していただくといいのでは、と思うのです。企業とのパートナーシップの本質的理解につながるでしょうし、何より企業の内側から変化を起こす上で必要な視点と考えます。

 もっとも、トップの中にも企業の行き詰まり(例えば、グローバリゼーションや商業主義の弊害)に苦しむ人はたくさんいるはずなのですが、易々とは方向転換できないので、益々苦境に立たされているような観があります。

 そうなると、対峙すべきはその企業やそのトップではなく、グローバリゼーションや商業主義、ということになるでしょうか。短絡的ですが、グローバリゼーションや商業主義を緩和・是正できれば、環境に限らず、労働、福祉、教育等々、社会問題解決の糸口が見えてくるような気がするのです。今後、企業とのパートナーシップは、その辺がテーマになってくるかも知れませんね。(逆に、グローバリゼーションや商業主義を巧く取り込んでいる企業による環境対応はどこか空虚な感じがしなくもありません。)


  • 付記2) 退職に伴うご挨拶(主文のみ)

 年度末、3月29日(金)を以って、NECを退職致しました。学生時代に感銘を受けた夢の島「アースデイ・フェスティバル」の一協賛企業だったことで、NECを選び(公務員になる道もありましたが)、そのNECにおける環境推進部(当時環境管理部)は、かねてからの希望部署であり、自分としてはヒノキ舞台でした。僭越ながら、そうした思いが強かった分、反動も大きかったようで、一大決心をするに至りました。

 本社・環境推進部では9カ月という短い間しか持たず、面目ない限りですが、NEC在職中
(GPN出向期間を含め)、大変お世話になりましたこと、改めて御礼申し上げます。誠にありがとうございました。

 グリーン購入ネットワーク(GPN)在職中は、おかげ様を以って自分としては有意義な仕事をさせていただいた訳ですから、NEC復帰後はそれに報いるような形で仕事をしたい、と念じ、自分自身がどこまで企業で通用するかを考えつつ過ごしてきました。が、無理が嵩んでか、昨年7月・8月は心身ともに調子を崩してしまい、小康状態の後、不本意なことに今年2月には消化器を患ってしまいました。このような状況のままでは、社内外を問わずご迷惑をかけかねないと思い、けじめを付けるためにも一念発起し、NECを退職することにした訳です。
(在職中は、主に予算管理や部内のインフラ整備などに携わりつつ、Eラーニングによる環境教育の教材作りなどに関わり、相応の成果は果たせたものと思ってはいます。)

 企画グループ
(部内共通業務・庶務)だから、環境部署だから、本社だから、NECだから、それとも電機メーカーだから? どれも因果関係があり、複雑に絡み合っているようです。

 復帰してしばらく経って、部内の不信・不敬な雰囲気、納得や共感に乏しい仕事の進め方、情報共有不全による仕事の非効率(無用なスピードと空転)、トップ層に翻弄される無秩序さなどに気が付きましたが、上記のどこに理由を求めたらいいのかわからず、苦慮は募るばかりでした。

 いろいろなご縁の中で、個人的な環境行動が高じて、仕事と結びつき、環境推進部へ、といった感覚でいましたが、それはあまりに苛酷だった、といったところでしょうか。個人の信条が仕事に生かせればそれ以上のものはないと思うのですが、認識が甘かったというか、驕りだったのかも知れません。企業においては仕事は仕事で現実的に割り切らないといけなかったんでしょうね。

 90年代前半は、社会貢献、ゆとり、ライフスタイルの見直し、といった企業の新しい社会的使命や付加価値を追求する機運を感じ、揚々としていましたが、長引く不況、グローバリズムや商業主義の台頭、世界秩序の混乱、企業間競争の変質(勝ち負けの二分化)等々で、そうした機運は消し飛んでしまったのではないか、と個人的には思っています。

 今の企業が直面せざるを得ないグローバリゼーションや商業主義と、環境配慮・環境調和・環境貢献はどうしても矛盾します。その矛盾との葛藤が自分の中で大きくなり、持ちこたえられなくなってしまったこともあるようです。

...時にはお心遣いを、時には励ましをいただき、大変救われました。ここに謹んで、在職中に賜わりましたご厚情に心から御礼申し上げますとともに、今後も変わらないご厚誼を賜わりますようお願い申し上げます。

 末筆ですが、皆様のご健勝とご多幸を心からお祈り申し上げ、略儀ながら書中を以って御礼のご挨拶とさせていただきます。どうもありがとうございました。


Copyright© 冨田行一<Kouichi Tomita> All Rights Reserved.

ページ先頭に戻る

ご声援用バナー *週に一度のクリック、よろしくお願いします。(^^)