随筆「東京モノローグ2001」(3−4月期)
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第87話 タクシー地名考 / 第86話 南北線、今度は北へ直通 / 第85話 清掃工場見学記 / 第84話 80年代アイドル歌謡曲

第87話 タクシー地名考(2001.4.15)

 ただでさえ乗らないし、第7話の深夜タクシーで懲りて以来、ここ数年は本当にタクシーを利用することがなくなった。自転車通勤の途中でも、その数(ムダな空車)の多さ(比較的すいている道路でタクシーが抜け道然と何台も走っていくのには呆れる)、交通ルールに対する忠実性のなさ信号無視、一時停止違反、強引な右左折、方向指示なし、スピード出し過ぎ etc. プロとしてあるまじき態である)、そして自転車を軽侮するかのような行為クラクション多発、幅寄せ、進路妨害 etc.)を目の当たりにしない日はない。日々としてタクシーへの悪感情は高まるばかりであった。しかしちょうど先月、両親と新橋のふぐ店で昼食をとった後、八重洲のブリヂストン美術館(「ルノアール展」)へ移動するのにタクシーを利用する機会ができ、グリーンキャブを拾ったところ、実に好感度の高い運転手さんで、これまでの悪感情が緩和されるに到った。行先に対する返事、ルートの確認、乗車・下車時の挨拶、言葉遣い、運転操作等々、どれをとっても満足なものだったのである。(実は「タクシー利用者モニター」を妻が嘱託されていたのだが、二人ともタクシーに乗らないものだから、ずっとモニタリングできず、この日、窮余の策でタクシーに乗るルートと人数を設定した、というのが正直な事情である。) 悪感情の捌け口にきっちりモニターしようと思っていただけに、このCSの高い接客ぶりには意表を衝かれる思いであった。以来、タクシーを見る目が変わったのは言わずもがな、である。タクシー会社はともかくも、いい運転手さんに遭遇できて良かった。

 モニター用のハガキには乗車した日時・区間・料金・人数の他、当然のようにタクシー会社と「ドアナンバー」を記載するようになっている。ドアナンバーは、正に自動開閉する扉についている番号で、これと会社名があればどうやら1台1台特定できるらしい。さて、この時のモニタリングがきっかけで、タクシーの車体ヨコに付いている他の文字にもいろいろ目が行くようになり、そう言えば、その文字の中でも前方に付いている(   )書きの地名は前から何となく気になっていたが、いろいろなパターンがあって調べると面白そうだ、と相成った訳である。前置きが長くなったが、今回の話はそんなタクシーの地名考
(とりあえず一部の都内)である。

 自動車のナンバープレートに打ってある、各都道府県名(陸運事務局の所在地名)のパターンも興味があって、ひととおり覚えることができたが、このタクシーの地名はそう易々とはいかないだろう。関係筋のホームページを見たら、これは何でも「所属営業所の所在地名」を表しているそうで、「車両が所属している営業所の市町村名が括弧書きで書かれ、『市』『町』『村』の文字は省かれる場合がある」とある。そして「東京都特別区、武蔵野市、三鷹市の区域の場合は別途関東運輸局長の定めた略称を用いる」となっているので、やはり都内を走るタクシーがいろんな地名になっているのはそのためか、と合点がいった。

 珍しく?!時間的ゆとりのある週末を迎えることができたので、早速地元+埼京線各駅(つまり赤羽〜池袋)の駅頭で待機しているタクシーの地名を調べてみることにした。この城北地区にはいったいどこに営業所があって、又、どこからタクシーは流れて来る(どのくらいの移動範囲)のだろう。

 ついでに会社名も併記してみるとざっと以下のようになった。
(社名略称(○○交通・○○自動車の場合、○○部分のみ記載)の50音順)
 
*( )数字がないものは1台


  • 4月14日(土)15:00に、十条駅西口に待機中だったタクシー

営業所名

社名

赤羽

新都、春駒

足立

すばる、ダイヤ、丸正

板橋

省東、東都、日興

*わりとゆったりしたペースで流れていた。台数も程々といった感じ。ちなみに省東は禁煙タクシーだった。


  • 4月14日(土)15:15〜に、赤羽駅西口に待機中だったタクシー

営業所名

社名

赤羽

新日本、東洋、春駒、日の丸、個人

板橋

大栄

王子

新田(2)

*一列に待機していた範囲を書き出したもの。ロータリー部分には常時20台程度停まっていて、順番を待っている。

  • 4月14日(土)15:20〜に、赤羽駅東口に待機中だったタクシー

営業所名

社名

赤羽

東洋、新田、陸王

板橋

同進

王子

新田

西新井

明治

*東口は西口とは逆に、ロータリー部分が手前。ロータリーに入れないタクシーは沿道に一列になって待機している。(同時刻での沿道のタクシーは、赤羽:東洋(2)、個人、王子:新田の4台だった。夜はこの沿道待ちは長蛇になっていることが多い。)

  • 4月14日(土)15:25〜に、赤羽駅西口に待機中だったタクシー(東口を見てから、再度調査)

営業所名

社名

赤羽

東洋、春駒(2)

板橋

グリーン、個人

志村

個人

高島平

グリーン

*10分前にロータリーに停まっていたタクシーが何台か流れた後だった。1分に1台ペースで回っているようだ。


  • 4月15日(日)13:45過ぎに、池袋駅東口に待機中だったタクシー

営業所名

社名

赤羽

新都、春駒

足立

すばる、日の丸

池袋

日興、宮城

板橋

安全(2)、日興

王子

富士(2)

港南

国光

下落合

安全

千住

帝都

滝野川

個人

堀ノ内

都民

三鷹

寿

*思っていたよりスローペースだったが、待機している台数はやはりそれなりだった。堀ノ内、三鷹は中央線方面なのでちょっと意外な感じがした。(西口にいるならわかるが)

  • 4月15日(日)13:55過ぎに、池袋駅西口に待機中だったタクシー

営業所名

社名

赤羽

新都

池袋

池袋(3)、日興

板橋

安全、グリーン、大栄、第三松竹、大和(2)、同進(2)、東都(3)、日興、日停、ラッキー

大泉

東都

尾久

幸裕

高島平

共栄

中野

城西

練馬

京王

*客を降ろした後は、ロータリーをきちっと周回して順番待ちの列に加わる。ここは横に3台並んで、その3台が(向って)左→右→中央の順に乗り場に現われるという規則性が保たれているので、感心した。3台1組としてその組が後ろに8つできているので、常時24台が待機する構図である。だがその塊があまりにガッチリしているので、仮に乗りたいタクシー(初乗り340円や禁煙車)が見つかっても、その場に行って指定乗車するのはまず困難(やはりそのタクシーが来るまで譲り続けるのが乗客としてのマナーなのだろうか)である。何とも選択自由性のない乗り場である。

*結構頻繁に進んでいくので、書き留めるのに難儀した。上記24台分を書いて10分ほど経ったら一段落したので、その後ろの塊をまるごと調べたら、ほとんどが板橋(1台だけ田端)だったので驚いた。(池袋)のタクシーはどこへ行ってしまったのだろう?


  • 4月15日(日)14:30過ぎに、板橋駅に待機中だったタクシー

 *東口、西口ともに1台のみだった。(台数のみ確認)


 赤羽〜池袋はやはり土地柄と言おうか、社名・地名ともにほぼ均一な感じを受ける。(さすがに池袋はターミナルなので、移動範囲が広めだが。) 均一と言っても、地名以上に、タクシー会社が多種多様なことがわかったのはある意味、発見だった。系列やグループがあるため、見た目は似たようなタクシーが多いのだが、社名まできちんと見ると実に多彩なのである。

 おそらく空港や東京や新宿などのターミナル駅だともっと様々な会社・地名が出てくることだろう。ついでがあったら調べてみたいと思う。きっと筆者の知らない
(というかすぐにピンと来ない)地名もたくさん出てくるだろう。

 蛇足だが、今回の調査でリスキーだったのは、1)クリップボードを持って駅頭に立っているもんだから、何かのキャッチセールス系アンケート調査と怪しまれる可能性があること、2)営業所名を確認するのにどうしても前から見ないといけないので、運転手と目が合いそうになること
(柄の悪い運ちゃんだったら、絡まれるかも)の2点。クリップボードを使わないで、手帳か何かにしたら今度は聞き込みみたいだし...

第86話 南北線、今度は北へ直通(「南北線シリーズ」完結稿)(2001.4.1)

 地元冥利に尽きると言おうか、待望の埼玉高速鉄道が開通し、赤羽岩淵止りだった南北線が今度は北に延びることになった。おめでたい限りである。ここんとこ筆者地元では年度末ということもあるが、景観の変化が相次いでいて、例えば北赤羽駅(赤羽口)のロータリー整備(と言っても暫定)、環八通りの2車線化完工間近、赤羽駅東口の旧駅舎取り壊しなど、目覚しい。そうした変化に加え、この新線開通なので、赤羽界隈は結構景気がいいような態である。28日の開業日は、早起きして、2車線化を目前にしたその環八通りをひた歩き、赤羽岩淵駅に向った。埼玉高速鉄道に試乗?!してから、そのまま南北線で南下して、出勤しようっていう魂胆である。(さすがに途中下車&各駅乗り降りは不可能なので、ぐっとこらえて単純往復...)

 赤羽岩淵駅の地上出口には、営団地下鉄と埼玉高速鉄道のマーク(社章)が早速並んで表示してある。階段を降りて、乗り場を誘導する案内板を見ると「埼玉高速鉄道」が書き加えられている。臨場感が高まってきた。しかし、その案内板漢字表記の下に併記してある英文をふと見ると、「Saitama Railway Line」ときた。まるで、ARAKAWA RIVER、KAMPACHI DORI STREETのような書き様である。なぜ「Saitama Exp. Railway」にしなかったのだろう?
(ちなみに、同鉄道のホームページは、www.s-rail.co.jp/である。) 頭を「?」が回る中、券売機をチェックしてみる。話には聞いていたが、何でも地下を走る鉄道では初乗り最高額というだけあって、「210円」の表示が鮮やかである。1駅ごとに運賃が40〜50円アップしていくので、終点の浦和美園までだと何と「460円」である。つまり、一定区間内であれば同額ということがないので、乗れば乗るだけ嵩んで(加算で)いくのである。ゆりかもめ、多摩都市モノレール、りんかい線、船橋市を横断する東葉高速鉄道、古株では千葉ニュータウン線も高額だが、やはり新しくできる単独の鉄道(三セク)はどうしても高くつくようだ。

 一日乗車券でもあれば、気軽に趣味の乗り降り小旅行ができるのだが、どうやらなさそう。川口の未体験ゾーンや見沼田圃方面に行くには、渋々高額の切符を買いつつ行くしかない訳である(何回かに分けてのんびり行くことにしよう)。さて、券売機周辺を見渡す限り、記念の乗車券らしきものもなく、有人改札で申し訳程度に記念パスネットが売られてるだけ。これもちょっと拍子抜けである。

 構内は特に華々しい装いもなく、至って日常的な印象。だが、乗降客はキョロキョロする中にも一様ににこやかな表情が窺え、人の表情が醸し出す華やかさ、といったものを感じた。さてホームに降り立つと、これまで終着か始発か回送の車両しかなかったのが嘘のように、活気あふれる感じ。つまり電車が行ったり来たりすることが躍動感をもたらす訳である。新線初日ということもあるだろうが、駅員も実にハツラツとしているから大した効果である。


 これまでは、上り(南方面)始発だった1番線が、下り方面「浦和美園・川口元郷」に改まっている。行けそうなところまで単純往復してみるか。そんな筆者に打ってつけかどうか知らないが、次は7:50発「鳩ヶ谷」行きだった。2番線上り電車に目を向けると、満席で立ち客もそれなりという活況である。これに対して、入ってきた下り電車(東急線車両)はやはり閑散としたもので、ロングシートを一人で座れるような状況である。7:50発のところ、時計を見ると7:53になっていた。開通したてはいろいろトラブルも生じるのだろう、時間通りとはいかないようだ。(遅れについて何のアナウンスもなかったのはいただけないが...)

 赤羽岩淵を出ると、真直角(90°)のカーブに入る。しかし、そんなことを感じさせないほど、静かで安定した走り*だった。
*注:クルマの宣伝ではない。) 遅れを挽回するためかどうかは不明だが、カーブが終わると、心地よく加速*され、高速鉄道の名に恥じないスピードを感じた。荒川の下を快走し、最初の駅 川口元郷に着く。各駅ごとにテーマカラーがあるらしく、ホームドアなど薄紫色に塗られている。そんな色調のせいもあろうが、何となく抑制の効いた感じだった。次の南鳩ヶ谷(群青色)までは、上を走る道路(122号線)と同じで緩やかなカーブ。南鳩ヶ谷から鳩ヶ谷までは、直線のはずだがスピードに緩急があって「あれれ」という感じ。ともかく今回の試乗(往路)はここまで。ホームに降り立つと、テーマカラーの水色(空色)が清々しく、シンボルマークも鳩が舞う図(イトーヨーカドーを想起させる)でなかなかである。改札階に出ると、天井が高く広々していて、かつ余計な造作物も少なく、洗練された感じ。総じて明るく、好感が持てる。行き交う人も赤羽岩淵で見たのと同様、キョロキョロ + ニコニコ、しかもここでは、埼玉高速鉄道オリジナルの記念パスネット(3枚セット−その名も「夢・元気・自然」)が堂々と売られ、一層華やいだ雰囲気である。「鳩ヶ谷の皆さん、おめでとうございます!」

 このあたりでは見慣れない地名と思われる「奥沢」
(東急目黒線)行きの上り電車を見送り、8:08発「白金高輪」行きで職場へ向う(永田町乗換→表参道)。都合よく埼玉高速鉄道オリジナル車両だったので、この日のテーマ「試乗」ができてよかった。東急線車両に比べてゆったりめの感じ、窓も1枚で実に広々(ワイドビュー)である。程々に席が空いていたが、座ってみると窮屈な感じがしないので、一人あたりの幅を広めに設定しているのだろう。おかげでこの日は快適に出勤できた。

 ...これまで鳩ヶ谷市民の方は、国際興業バスに揺られ、渋滞する中、時間をかけて赤羽駅まで通うしかなかった訳だが、これでそうした不便やイライラは解消される。しかし純粋に赤羽駅に用事がある場合や、埼京線で池袋・新宿方面に急ぎたい場合は、やはりバスを使うことになるのだろうか。赤羽岩淵と赤羽は乗り換えアクセスが考慮されていない(結構歩く必要がある)ため、JRの駅に乗り継ぐには、南北線で王子か駒込まで出なければならない。王子まで行って赤羽まで京浜東北線で逆戻りというのも不自然だし、駒込からわざわざ山手線に乗り換えて新宿へ、というのも面倒だ。新線開通でバス路線が短縮されたり廃止されたり、というのはよくあることだが、今回のように鉄道が完全にバス路線の代替になり得ない場合は、鉄道とバスが共存(相互補完)できるような気がする。


 第2話第74話とお届けしてきた「南北線シリーズ」(急遽命名)、今回でひとまず完結です。本稿「東京モノローグ」を書き始めてから3年半経ちましたが、その間、南北線がその名の通りの「南北」線に進化したこと、利用客として晴れ晴れしく思います。

 それにしても、2000年度末の新線、新列車ラッシュと言ったら...(京王線の準特急、東急東横線の特急、りんかい線の延伸(天王洲アイル駅開業)、ついでにJR埼京線 渋谷駅新南口も。大阪ではユニバーサルシティ駅もできるし...) 東横線の特急はいいネタなので、いずれとりあげるつもりです。

第85話 清掃工場見学記(2001.3.15)

 赤羽岩淵と王子を結ぶ北本通り(きたほんどおり)沿い、地下鉄南北線 志茂駅の程近くに、北区の清掃工場(といっても板橋区・足立区の分も処理しているが)がある。3年前に竣工して、何となく気にはなっていたものの、見学しようという気にまではなかなかならなかった。久々に目を通した区報に見学会の案内が出ていたので、妻君の後押しもあり、見学会に行くことにした。10年以上前、砧公園の一角にある世田谷清掃工場に行って以来の清掃工場である。比較的新しい清掃工場なので、さぞよくできているのだろう、と思って見に行ったら、案の定よくできた建造物だった。分別が徹底してきたこともあるだろうが、とにかく高熱処理と処理結果(空気・灰・水...)のクリーン化(後述の3.4.の処理の比重が高まり、清掃工場に占める公害対策設備が大きくなっているとのこと)が行き届いていて、感心しきり。これではかえって見学会に参加した人程、安心してしまって、ゴミの出し方がルーズになってしまうのではないか、と危惧してしまう。見学会に出たからには、意識が啓発されて然るべきだが、清掃工場側の説明も、その処理の周到さを説くものが中心で、清掃工場の課題やゴミに関する注意等についての話がなかったような気がする。この日の参加者の方々はたまたまなのか、もともとなのかは知らず、意識の高い方が多かったので、ためになる話を引き出してもらえてよかったのだが、受け身で説明を聞くばかりではあまりためにならなかっただろう。

 ビデオ説明、
(各設備のモニターカメラからの)リアルタイム映像による解説、見学コースに沿ったガイドという構成で、なかなか充実した1時間半程の見学会である。せっかくいろいろ見聞きしてきたので、ゴミ処理の流れに沿って、ざっとおさらいしてみよう。(現場を見学できた箇所は●。直に目にできるのはごく限られているのである。)


1.受け入れ

●【1】収集車到着、ごみ自動計量、エアカーテン

 どこの管轄の収集車が何時何分に来て、どのくらいのゴミを運んできたか、コンピュータ処理される。同時に、外部にゴミの臭気が流出しないよう、入口にあるエアカーテンで脱臭される。

●【2】ごみバンカ

 収集車が直接焼却炉に入れていた時代もあったが、今はこのごみバンカで一時ストックしてから、以下【3】【4】のプロセスを経て、焼却炉に運ばれる。

●【3】ごみクレーン

 【2】にたまったゴミをこのクレーン(直径5m)で攪拌しながら持ち上げ、次の(4)ごみホッパに投入。クレーンの1回あたりの持ち上げ量は何と4トン。紙屑や端材等の可燃ゴミゆえ、もともと軽量のゴミを扱う訳だが、たくさん持ち上げるとかなりの重量になることがわかる。仮にこのクレーンで、重さのある細かいゴミを集めて持ち上げたらいったい何トンまで耐えられるのだろうか。

 ちなみに、攪拌が欠かせないのは、家庭ゴミと事業ゴミとで成分(構成)が異なるので、できるだけ均一化して燃焼させやすくするため、であった。同じ収集車でも周回する地区によって、家庭 対 事業の比率にかなり差が出るということだ。つまり、ある収集車は家庭ゴミを多く出し、またある収集車は事業ゴミを多く出す。【2】は攪拌しないと家庭ゾーンと事業ゾーンに色分けできてしまうのである。(下:【2】|中央:【3】|右:【4】)

●【4】ごみホッパ

 焼却炉にゴミを投入する入口にあたる。焼却炉からの排熱等が【2】に漏れ出ないように、ゴミそのものでブロックする構造になっている。通常は【4】へのゴミ投入量は自動調節される。


2.燃焼

 【5】焼却炉・燃焼装置

 清掃工場の建物本体の高さを抑えるため、【2】もそうだが、この焼却炉の部分も地階に造られている。【2】は吹き抜け構造なので見学できたが、燃焼装置の部分は地階に閉ざされた位置にあるため、見学できない。ビデオの説明で見た限りだが、何でも「固定火格子」と「移動火格子」という装置の組み合わせで、投入されたゴミが回転しながら焼却されるということだった。

 燃焼用空気が絶えず供給されるので、火力は強く、800〜950℃を常に維持している。この日の説明で唯一ダイオキシンという言葉が出たのは、この部分である。(この高温であればダイオキシンは無害レベルに焼却される、という程度の説明) 不燃物や可燃不適物が全体の1割程は混ざってしまうという実状からも、完全燃焼と言い切れないのだろう。ダイオキシン向けの対策として活性炭も併用しているとのことで、
0.00033ナノグラム−TEQ/mに抑えているというからそれを信じるばかりである。

 *ここからは通し番号を振るにはあまりに複雑なので、主な流れのみ書き綴る。


3.排気処理

 焼却時の排気は、ボイラを循環して、240℃まで減温される。その後、濾過式集塵機(バグフィルタ)で、塩化水素とSOxは消石灰特殊反応助剤で、NOxはアンモニアガスで処理される。(ボイラから先、ガスタービン発電、余熱利用設備等につながるが、詳細は省く。)


4.飛灰

 集塵機を通った飛灰は、重金属などが取り除かれた後、誘引ファンを経由して、冷却吸収減温塔に送られる。ここで55℃まで温度が下げられ、今度は脱硝反応塔で再加熱されてNOxが除去される。ここまで来てはじめて、煙突からクリーンな状態で排気される、という訳だ。

 焼却後に残った灰の方は、灰コンベア→灰冷却水槽→灰バンカ→灰クレーン→...と【2】〜【4】のようなプロセスを経て、灰運搬車に積載される。灰はご存じの通り、(破砕・選別後の)不燃ゴミと同じ埋立処分場へ運ばれるのである。この灰を埋め立てに回さなくても済むよう、溶融灰スラグにして建設資材等に転用する取り組みも進んでいるようだ。

 最後に気が付いたことをいくつか...

  • 都内の清掃工場の中では比較的狭い敷地に建っているので、日量600トンの焼却炉が1基というシンプルなもの。2基(例:300トン×2)あれば、片方をメンテしても、もう片方が稼動できるので、清掃工場全体としての維持がしやすく望ましいと話していたが、ここ北清掃工場のように1基だけだと、メンテする際、清掃工場を全面的に停止しなければならないため、いろいろ不具合がありそうだ。

  • 2月は第83話でも書いた「ニッパチ」のせいか、ゴミ量も少なかったそうだが、3月になり、年度末近くになると俄然量が増えてきて、この日は4000トンがストック(処理待ち)状態だった。たまり過ぎると、クレーンの操作を自動化(ごみホッパへの投入量の自動調整含む)できないため、手動でクレーンを操作すると言う。実際の現場を見ている中で、その説明が実に淡々としたものだったので、余計に驚いた。ここは一つゴミ出し(発生)抑制を喚起するのに絶好の場面だと言うのに。

  • 底にたまったゴミはどうなるのか尋ねたら、一生処理されないだろう、などという不穏当な答えが返ってきた。清掃工場のゴミは先入れ先出しではなく、先入れ後出しである。新着のゴミはさっさと処理されるが、処理能力が間に合わない場合は、古いゴミがどんどん下に埋もれてしまい、言わば化石化の道をたどる。洗濯槽のように、底部にスクリューだか攪拌装置のようなものがあればいいのだろうが、唯一、攪拌の役目を果たすクレーンの腕が、特に底部の隅には届かない設計になっているため、隅っこの下の方のゴミはそのままになってしまうのである。良からぬ化学反応やら醗酵やらが起こり、底面を侵食し、地下水汚染とかにつながらなければいいのだが、要らぬ心配だろうか。

 とにかくいくら清掃工場が立派でも、ゴミを元から断つ・減らす努力が欠かせないことは言うまでもない。可燃ゴミの灰、そして処理後の不燃ゴミが埋立処分場に向う図式は変わらない訳だから、埋立処分場が満杯になる(埋立が不可能になる)日がいつかは来ることをふだんから思い起こして、ゴミの出ない(資源を循環させる)生活を心したいものである。

第84話 80年代アイドル歌謡曲(2001.3.1)

 80話を超えたところで、80年代回顧というつもりでもないのだが、「ちょうど20年前の今ごろは...」てな具合に思いを馳せることが多くなり、小学校を卒業する頃、つまり中学校に進学するにあたって期待と不安の入り交じった感情を抱えていた、そんな時期が何となく懐かしく思い起こされるようになってきた筆者である。

 「あの頃はこんな曲が」と流行曲を重ねあわせて往時の状況を記憶している人は多いだろう。筆者もご多分に洩れず、そうした一人である。しかし、よく考えるとそれはあくまで先の第76話で書いた「ザ・ベストテン」関係と、20年前に流行っていたアイドル歌謡曲(CMソング含む)とのリンクが中心で、アイドル歌謡曲の衰退、「ザ・ベストテン」の放送終了とともに、そうした流行曲による記憶の連係はなくなっていったように思う。世にコンパクトディスクが登場し、山下達郎、大滝詠一、角松敏生、吉田美奈子、坂本龍一あたりをCDで聴くようになってからは、流行モノではなく、あくまで自分の傾聴するミュージシャンのアルバムで聴く曲とのリンクに変わっていった訳である。最初に買ったCDは佐野元春のセレクト盤「No Damage」だが、これは1985年のことだから、80年代中盤からすでに流行曲とは何となく縁遠くなっていったことがわかる。これは世の歌謡曲離れと何となく軌を一にしているようで、我ながら興味深い。

 という訳で、筆者が小学校6年生から高校2年生くらいまでの80年代前半はアイドル歌謡曲、特に女性歌手の曲から記憶が紐解かれることがここに来て実感されるようになった。20年前、1981年の今ごろは、松田聖子で言えば「チェリーブラッサム」
(作詞:三浦徳子/作曲:財津和夫)であり、松田聖子の曲中、筆者もっともお気に入りと思えるのも、この曲が先述した期待と不安の入り交じった当時の感情にピッタリくるものがあったから、だと省察している。(何せ歌い出しが「何もかもめざめてく新しい私...♪」なもんだから、打ってつけである。) 歌っている本人曰く、「最初は歌いにくいと思っていたが、今ではもっとも想い出深い一曲」(昨夏の20周年コンサートにて)とあるように、当時の感情投影があってもなくても、やはりこれはイイ曲だったようだ。

 80年代アイドル歌謡曲を代表する松田聖子は、本人の力量やスター性に加え、曲に恵まれたことも大きかったと言われる。特に作詞:松本隆、というのは絶大で、「チェリーブラッサム」以外に筆者が好きなシングルヒット曲を挙げるとしたら、「風立ちぬ」
(作曲:大瀧詠一)、「野ばらのエチュード」(作曲:財津和夫)、「ガラスの林檎」(作曲:細野晴臣)、「Rock’n Rouge」(作曲:呉田軽穂(=松任谷由実))といった具合で、この4曲の作詞が全て松本隆であることからもヒットの度合いがわかる。作詞も良ければ、作曲陣も実に豪華である。ヒットする要素が備わっていたのが当時の松田聖子であり、シングル曲が22作連続でオリコンチャート1位になった、というのも肯ける。(逆に、この記録が22作でストップした時点で、いわゆるアイドル歌謡曲の一幕が降りたことを意味するとも言える。)

 80年代前半は松田聖子以外にも多くのアイドル歌手が台頭した。歌の巧い下手は問わないことにして、情感があって想い出深い(当時の記憶とリンクする)曲を1曲ずつ挙げていくと次のようになるだろうか。

 伊藤つかさ:「夕暮れ物語」(安井かずみ/加藤和彦)

 柏原芳恵:「第2章 くちづけ」(阿久悠/大野克夫)

 河合奈保子:「Invitation」(詞曲とも 竹内まりや)

 中森明菜「北ウィング」(康珍化/林哲司)

 早見優「夏色のナンシー」(三浦徳子/筒見京平)

 松本伊代:「時に愛は」(詞曲とも 尾崎亜美)

*石川秀美、小泉今日子、堀ちえみ、三原順子も売れっ子だったが、決定的な曲が思い浮かばない。薬師丸ひろ子、原田知世も80年代前半組だが、アイドルというよりは女優だったので除く。

 こうして書いてみると、70年代歌謡曲を手がけていた面々が引き続きサポートしていたことがわかる。これは作詞家と作曲家がアイドルに曲を提供する、という図式が当たり前の時代だったことを示している。80年代後半以降、おニャン子クラブが出現し、アイドルの多様化が進み、上記のアイドル歌手の旬が過ぎて、「寿引退」し始めるようになり、そのうちおニャン子も解散&活動個別化してくると、いよいよアイドル歌手の時代は終わり、それに代わってバンドブームが湧き起こってきたように思う。筆者も特定のミュージシャンのCDを新旧問わず買って来ては聴き漁るようになり、「ザ・ベストテン」も見なくなっていった。バンドブームが本格化してきたバブル景気の頃には、曲を自作するようになっていたので、いよいよ流行曲とのご縁が薄れていってしまったのである。

 さて、第61話では最近のバンドについて言及したが、バンドが流行っているのに加え、よくよく考えるとセルフプロデュース型のアーティストが増えているのが昨今である。かつてアイドルがもてはやされたのに代わって、どうやら今は自作自演の歌手がその地位を得ているようになったと考察できる。親しみやすさを象徴するのがアイドル歌手なら、自分の思いを自分で音楽にしてどれだけ表現できるかにかかっているのが、言うなればアーティスト型アイドルだろう。そこには親しみやすさよりは、むしろカリスマ性がついてまわるような感を受ける。

 その変化はCMの起用でもわかる。アイドル歌手はお菓子や飲料のCMが中心だった
(先述した筆者お気に入りの曲の中にもその手のCMソングがいくつかある)のに対して、アーティスト型アイドルは大人向け商品のCMが多くを占めているようである。これは音楽界での変化=市場の変化、を示していると言えるのではないだろうか。

 バンドやアーティストがめまぐるしく変遷するのが当然のように思っていたが、そうした変化の中でも、かつてのアイドル路線を彷彿とさせるような現象を最近感じるようになった。バンドはともかくとして、この頃の女性歌手
(アーティスト型アイドル)は、何となく顔ぶれが決まってきているからである。浜崎、宇多田、倉木、Misiaあたりは、タイアップの仕方にもよるが、曲を出せば決まって上位に来る常連ということに気づいた次第...。

 1位をとるミュージシャンが固定しつつあるのは、アイドルヒット曲が入れ替わりで1位になる20年前と状況的に似ていると思う。しかし、広く大衆が記憶する国民的ヒットとなると案外出にくい、という点が20年前と違うところか。上位常連であっても、チャート上の持続性がないのも特色かも知れない
(女性歌手は比較的息が長いようだが)。先週1位だったかと思うと、今週10位なんてのが時々ある。最初の週で集中的に売れるからだが、これは支持層が限定的、つまり広く大衆性を得るに到らない証なんだろうと思う。それでも、こうして流行っている曲をその時々の記憶とリンクさせている人がいることは確かである。人それぞれのお気に入り、記憶の曲があっていい訳だ。


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